こんにちは!株式会社afterFITのnote編集部です。現在afterFITに在籍する社員は約400名。電力会社やインフラ業界の出身者だけでなく、まったく違う業界から転職してきた方も非常に多いです。そこで今回より、ユニークなバックグラウンドを持つ社員を紹介するために「私が再エネベンチャーに転職した理由」をスタートします。第1回は、弊社CCO(Chief Communication / Carbon-Neutral Officer)であり脱炭素メディア「EnergyShift」の発行人 兼 統括編集長も務める前田雄大。“世界一脱炭素に熱い男”として、Youtubeチャンネル「エナシフTV」にも出演しています。そんな前田、実は昨年までは世界を相手に戦う外交官でした。官僚という順風満帆なキャリアを捨て、どうして再エネベンチャーであるafterFITに入社したのか。前田が持つ、大きな夢、情熱を聞きました。(文:小林泰輔)目次「日本のために働く」と決意した学生時代世界を相手に戦う中で抱いた危機感違和感と向き合う中で得た確信「日本のために働く」と決意した学生時代私は2007年に東京大学を卒業後、外務省に入省しました。数ある行政機関の中から外務省を選んだのは、学生時代に「日本の社会・経済のために働く」と決めていたからです。そう決意したきっかけは2つあります。まず1つは、19歳のときにアメリカンフットボールU19日本代表に選出されたことですね。JAPANと書かれたユニフォームを着て、フィールドのど真ん中で君が代を耳にした瞬間に「自分は日本人なんだ」と強烈に自覚したんです。身体中に鳥肌が立ったあの感覚は、今でも忘れていません。また、その数年後に生死を彷徨うほどの大病を患ったのも、きっかけの1つです。大手術の前日に「自分は、ここまで育ててくれた日本社会にまったく貢献できていない」と気づいたんです。だからもし助かったら、自分のためじゃなくて社会や他人のために生きようと決めました。きっとそう生きられたら、死ぬときに「自分はやり切ったぞ」と胸を張れると思ったんです。そういった経験から「皆が笑って過ごせる未来を作りたい」「日本をもっといい国にしたい」と考えるようになりました。そして、そのために重要なのは国益だと思い、外務省を選びました。世界を相手に戦う中で抱いた危機感外務省では、発展途上国の開発協力や原子力外交、官房業務など、さまざまな外交業務を経験しました。その中で感じたのは、未来の日本への希望、ではなく「日本はこのままではまずい」という危機感でした。外交とは、国益を追求するために行われるものです。表向きではニコニコ握手をしていても、その裏では「国益をかけた仁義なき戦い」が繰り広げられています。そして、その外交に勝つためには国力、つまり他国への影響力が絶対に欠かせません。例えば日本外交のお家芸的な手法として、経済力を背景に、途上国に対して開発援助を行い、経済発展に貢献することで日本の外交力を保つというスタイルがあります。こうしたスタイルは、日本の経済的優位性があるうちは有効に働きます。しかし、私が入省以来生じていたのは日本経済の低迷。日本の外交力を支えてきた日本の経済力が失われていくと同時に、中国などの競合国が量的な支援を展開するようになりました。日本の外交が影響力を及ぼせる範囲が狭くなっていったのです。他にも様々な局面で日本の外交力の低下を感じる事案があり、そのたびにその背景にある日本の国力の低下も痛感しました。それが、外交官生活を通して見えた現実だと思います。何か糸口を見つけないと、このままでは日本が終わってしまう。じゃあその糸口とは何か?必死に考えても見つかりません。悩んでいる今も日本は沈んでいく。私の焦りは募っていくばかりでした。そんな最中、パリ協定が発効されます。世界的な脱炭素の機運が高まったタイミングで辞令が出され、私は気候変動の総括を担当することになったのです。違和感と向き合う中で得た確信気候変動については、グローバルな課題であることから国連の枠組みの中で継続的に議論がされてきました。しかし、気候変動対策の一丁目一番地である「CO2排出量の削減」は「経済成長の追求と相反する」と考えられ、気候変動対策は環境対策という域を出られず、気候変動に関する交渉は遅々として進みませんでした。ビジネスを中心に「環境保全と経済成長は両立しない」と認識されていたのが実態であり、起きていた議論は「どこの国が気候変動対策をやるべきか」というものばかり。こうした背景から、本気で気候変動対策に取り組む国は、果たしてどこまであったのだろうかという時代が続きます。しかし、2010年代に入って大きな変化が起きました。2010年から2019年までの約10年のうちに、太陽光の発電コストが劇的に下がったのです。(出典:外務省「気候変動に関する有識者会合 エネルギーに関する提言」)2013年には、世界の再生可能エネルギーの年間導入容量が非再生可能エネルギーを抜き、「再生可能エネルギーの方がコストが安い」という国も現れました。再生可能エネルギーが経済性を持ったのです。これによって、世界の動きは脱炭素へとシフトし、その機運を高めていくことになります。その機運の高まりの好例が2015年の「パリ協定」の採択と言えるでしょう。日本では「パリ協定があったから脱炭素が進展した」という文脈で語られがちですが、私はそれは逆で「脱炭素の機運が高まりつつあったからパリ協定という歴史的な合意ができた」と考えています。2015年にはすでに、世界は脱炭素のスタートラインに立っていた。号砲が鳴ったのがパリ協定だったのです。しかしその一方で、日本では新しいムーブメントが全く起きませんでした。日本は、産業革命以降の“化石燃料ありきのビジネスモデル”を極めてしまっていたため、脱炭素に切り替えるインセンティブが他国に比べて低いという事情がありました。また、世界では下がった再エネのコストが日本ではそこまで下がらず、経済性が出てきませんでした。結果、日本は世界の動きに大きく出遅れてしまったのです。産業革命後に家内制手工業が衰退したように「変化に適応できないものは衰退する」ことは、これまでの歴史が証明しています。このままでは日本は世界に置いていかれてしまうのは明らかなのに、日本では誰も声をあげたり、アクションを起こしたりしようとしません。目まぐるしく動く世界と、今を守り未来への投資をしない日本。この2つの板挟みになった私は、日本に対して危機感だけでなく、大きな違和感を覚えました。そもそも再生可能エネルギーは環境と経済の両方にメリットを持ったんです。しかも、エネルギー自給が高まり、外部依存性が減る。もちろん解消するべき課題もありますが、大きな視点でみれば、メリットしかない。なのにどうして日本は取り組まないのか、ずっと疑問に感じていました。そんな中2019年6月に開催されたG20大阪サミット。私は気候変動部分の首脳宣言の起草や各国間の調整を担当しました。気候変動は貿易と並び、大阪での合意形成は容易ではないとされていました。事実、この直後に行われたフランス主催のG7では気候変動部分は合意形成に失敗しています。気候変動についてはあまりに各国の立場が乖離していて、日本は議長国として合意にもっていくことはできないという報道も多く出ました。確かに化石燃料の産出国や輸入に頼る国、グリーンエネルギーの導入を進める国など、参加国・地域の考え方は全く違うものです。しかし私は自分の中での仮説を立てながら、それを一つ一つ検証し、各国間の調整を無事に成功させ、気候変動に関する文言の合意を取り付け、首脳宣言の採択に漕ぎ着けます。アメリカや中国を含む主要20か国・地域が、揉めにもめた気候変動部分を含む、この宣言に賛同したのです。仮説検証を一通り終えた私はある確信をしました。それは「今後、世界は脱炭素で覇権争いをする」ということです。(後編はこちらです)